大宰府〜鴻臚館 古代官道ハイウェイ
去年書いた記事が消えてしまっていたので、再アップ。
わが家の近所に、古代、大陸との交流の窓口となった鴻臚館の跡地がある。以前から気になっていた鴻臚館と、ここから太宰府政庁まで真っすぐ延びていたという古代ハイウエイに注目して調べてみた。
この官道は、全国規模からみるとすこぶるショートウェイで、玄関から応接間に通じる「廊下」程度の距離しかないが、重要度は何にも増して高かったと思う。
鴻臚館は、688年の史料では「筑紫館」と呼ばれ、奈良時代を通じて遣唐使・遣新羅使や唐・新羅の国使等、すべての公人の接待をする迎賓館として機能していた。その後、842年の史料では鴻臚館と名を変えて登場し、11世紀末まで、新羅や唐の商人達の宿泊施設、いわば貿易商館として利用されてきた。宋時代になると、宋商人は博多津付近に居住しながらの交易が盛んになったので、鴻臚館は次第に衰退していくが、じつに四百年余りの長きにわたり、「日本の顔」として、古代を通じて、重要な役割を担ってきた施設であるといえる。
さて、太宰府から博多・鴻臚館に延びる道はふたつある。
ひとつは、太宰府政庁をぐるりと防護する水城の西門から出て、九大筑紫野遺跡群のひとつ池ノ上遺跡、先ノ原遺跡、春日市の春日公園遺跡などを通り、福岡市南区の三宅廃寺の傍を通り、さらに市内中心部を警固活断層に沿って鴻臚館まで直進する「西門ルート」である。全長は、太宰府政庁から約15km、道幅は12mである。距離は短いが、三宅に駅家として「石瀬駅」があったことが史料から知られている。駅家には馬家、宿泊、食事の施設や、寺、役人の住居、田畑などがあった。
もうひとつのルートは、都へ通じる山陽道(大路)である。「東門ルート」と呼ばれており、水城の東門から出てまっすぐ北西に直進し、今のJR博多駅の北に至る。距離は「西門ルート」より短いが、博多区の板付付近に「久爾駅」、博多駅構内付近に「美野駅」があったと考えられている。この博多駅の北には、古代の鴻臚中島館(兵の駐留所)ではないかと推定される遺構があり、ここと太宰府をつなぐ路でもあったのではないかと考えられている。
古代官道イメージ図『鴻臚館〜太宰府・古代ハイウエイを探る−古代官道ロマン−』より
このふたつの官道は、「遠の朝廷」とも呼ばれ九州全土を統括した太宰府政庁の表玄関ともいえる博多へ通じる貴重な路であることが分かった。九州の中心が福岡であることの理由がいまひとつ分からなかったのだが、このように歴史をひもとくことによって、福岡という街の歴史的存在意義も見えてくるように思う。
※関連過去記事
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